試合前のスタジアムに響き渡る「県民の歌」は、栃木SCの特色のひとつだ。僅かなファン・サポーターが声を限りに歌っていた「県民の歌」は、いつしか広がりをみせ、今では老若男女を問わず誰もが声高に歌う。“県民の県民による県民のためのクラブ”という誇りを強く意識させる。
前身の栃木教員サッカークラブの創部は1953年。文字通り主体は教員だったが、1994年に一般社会人にも門戸を開き、クラブチーム化。名称も栃木サッカークラブに変更した。1999年、7年ぶりに復帰した関東リーグで優勝を飾り、全国地域リーグ決勝大会を2位で通過。JFLに昇格したはいいが初年度の2000年には11連敗を喫し、移動距離が延びたことで遠征費は倍増。リーグ加盟料が重くのしかかり、2002年には消滅の危機に瀕した。最悪の事態は免れたが財政難は常に付いて回った。当初は『J』など口に出来る状況ではなかった。
転機が訪れたのは2005年。県民の日の6月16日に法人化されるとJリーグへ向けた動きが本格化する。ところが、翌年にスタジアムや運営面の不備が指摘され、J2準加盟申請が保留扱いになり、熱が冷めかけた。しかし、天皇杯全日本サッカー選手権の感動と興奮が一気に機運を高めた。三回戦で東京ヴェルディ1969(※当時名称)を1−0で撃破。乱打戦となった清水エスパルス戦は4−6で敗れるも、熱気を取り戻すには十分な材料となる。ファン・サポーター有志は「栃木県にJリーグチームを創る会」を発足させて署名活動を展開。最終的に14万人もの署名を集めた。
Jリーグ準加盟の承認を得て迎えた2007年。クラブ初のプロ契約選手9人を抱えるも、チームの大半はアマチュア選手が占めた。シーズン序盤こそ順調な滑り出しをみせたが、仕事とサッカーの両立は難しく、プロアマ混在のチームは開幕からの勢いを失う。11試合も勝利から見放され、高橋高監督は辞任し、後期から柱谷幸一監督が就任。夜間に土のグラウンドで行っていた練習を、昼間に人工芝のグラウンドへ移行し、プロ契約選手も増やすなど改革を行うが結果は伴わず8位に終わる。
不退転の決意で挑んだ2008シーズンは選手全員とプロ契約を結び、抜け切れなかったアマチュア体質を払拭した。練習場の優先使用など行政もクラブをバックアップ。着実に勝点を積み重ね、一時は独走態勢に入る。しかし夏場から9戦未勝利と負の連鎖に陥り、2007年の悪夢が再び甦るが、11月16日のアルテ高崎戦の勝利で「4位以内」を確保。優勝は逃すが2位でフィニッシュし、課題に挙がった増資にも目処が立ち、12月1日にJ2参入が叶った。本腰を入れてから足掛け3年、待望のJリーグクラブが栃木県に誕生した。

名古屋グランパスエイト(当時名称)を皮切りにJリーグで7クラブを渡り歩き、2008年に栃木SCへ加入。キャプテンに指名されると強烈なリーダーシップで若いチームを牽引し、開幕戦や「JFL4位以内」を確定させた試合など要所要所で必ずゴールを挙げ、抜群の勝負強さを発揮した。正確な左足から放たれるFKは大きな武器。16ゴールはチーム最多で、アシストも数多く記録した。有言実行を貫き通し、悲願だったJ2参入の立役者となる。中核に恥じないプレーは1年目からファン・サポーターの心を鷲掴みにし、サッカーに懸ける情熱と高いプロ意識は経験に乏しい若手のお手本となった。2009年も引き続きキャプテンの重責を担う栃木の象徴は、絶対的な存在として2年ぶりに戻るJ2で大暴れを誓う。

栃木が誇るスピードスターは、前身となる教員クラブからの流れを汲む貴重な生え抜き。市立船橋高校から国際武道大学を経て加入した際は、中学校の非常勤講師を務めるアマチュア選手だった。オールプロ化された2008年、アマチュア選手が大量解雇される中で唯一プロ契約を勝ち取った。俊足を生かした縦への突破が持ち味だが、ゴールへの意識が芽生え、ドリブルだけでなくシュートという選択肢も加わった。しかし一皮むけた矢先に負傷離脱。高安不在のチームは急激に失速した。J2参入を果たすも、喜び半分だった。その悔しさを憧れだったJの舞台でぶつける。2009シーズンからは10番を背負う。寄せられる期待は大きく、栃木の顔となるような活躍が望まれる。






